Автор Тема: Б.Н. Славинский - Советская оккупация Курильских островов  (Прочитано 1506081 раз)

Оффлайн Владимир Калинин

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Дело происходит в до боли знакомом ковше Северо-Курильска. А из Байково на чем тащили?

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на этой барже

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В Москву  Москву  Москву
Машина с заваренным пулеметом знакома... у нее внутри еще гусеницы свернутые были сложены.

Очень жаль это видеть.

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Относительно подробное японское описание боев на Шумшу. Естественно с японской точки зрения.
Оригинал на японском.

戦車第十一連隊は昭和15年3月に満洲で創設され昭和19年2月に第五
方面軍に転属となり北千島へ転進。主力は占守島に、一部が幌筵島、
松輪島、得撫島へ分駐しました。昭和20年8月15日の敗戦で連隊は同月
18日の午後に戦車を海岸に運び海中へ投棄する予定でしたが、その日
の午前零時にカムチャッカ半島のロパトカ岬灯台より占守島の国端岬と
竹田浜一帯に猛烈なソ連軍の砲撃が開始され、午前2時、ソ連軍は竹田
浜へ上陸を開始しました。占守島には歩兵第七十三旅団を基幹とする日
本軍は完全と反撃を開始し、敵正面と対峙したのは独立歩兵第二八二
大隊(大隊長 村上 則重 少佐)は『攻撃開始!』を下命、反撃の火蓋を
切りました。また午前2時30分、士魂台にあった戦車十一連隊長の池田
末男 大佐は、第九一師団長の堤中将より『上陸した敵を直ちに撃滅せ
よ』の命を受けて直ちに非常呼集を掛け『速やかに戦闘準備を完了し、
天神山に集結するべし』の命を出し、『天与の好機を逸する事無く、準備
の出来たものから我に続け』と決死の勢いで陣頭に出て出撃しました。
一方、午前3時30分にはソ連軍主力第一悌団(第138狙撃連隊基幹)が
上陸を開始、日本軍の激しい砲撃に遭い13隻の上陸用舟艇が撃破され
更に指揮艦艇を含む二隻が更に炎上し激しい被害を出しました。この時
海軍の九七艦攻を含む陸軍の隼など日本側の数少ない航空勢力が出撃
対空砲火でやられた一機の九七艦攻は見事にソ連艦艇に体当たりして
自爆を遂げるなど壮絶な戦いが繰り広げられました。午前4時には四嶺山
に上陸したソ連軍が迫り四嶺山を巡り日本軍との激しい攻防戦が繰り広
げられました。

午前五時、池田連隊長は天神山に到着。中隊長、小隊長がこれに続き
午前5時30分、池田連隊長は各隊に対して攻撃命令を出すと自ら指揮
班長の丹生少佐と共に先頭車またがり、日の丸の旗を片手に前進を開始
しました。午前6時20分、連隊は四嶺山南麓の台地に進出し、約一個中
隊の進出するソ連軍を見つけ攻撃を開始。各隊に『士魂部隊の最期を飾
るにふさわしく勇戦奮闘せよ』と訓示し堤師団長と杉野旅団長に対して『
戦車第十一連隊は四嶺山の麓にあり。士気益々旺盛。0650、連隊は
これより敵中に突入せんとす。祖国の弥栄を祈る』の訣別の通信を送り、
午前6時50分、横一線に展開した連隊は四嶺山の山頂を目指し前進を
開始、四嶺山に進出したソ連軍に対して戦車30両を持って進出したソ連
軍を蹂躙し圧倒。午前7時30分、突撃した連隊長は四嶺山の山頂に到
着、各隊の掌握をしました。一方、ソ連軍の最前線は勢いに呑まれて前
進を停止したままとなる。ここで一気に勢いにのって池田連隊長は敵を
圧倒したまま海岸線まで押し戻し殲滅する覚悟を決め、午前7時50分
、集結した戦車を加えて約40両の戦車を持って前進攻撃を再開すべく『
攻撃前進』を下令しました。連隊長は再び戦車の上に乗り日章旗を打ち
振り、連隊の攻撃隊形は左から第四中隊、第三中隊、第一中隊、連隊
本部、第六中隊、第二中隊と横一線に展開し約40両の戦車が敵に突入
しました。

対するソ連軍は対戦車砲や対戦車自動銃を全軍からかき集め対戦車
砲4門と対戦車自動銃約100挺を持って日本軍の戦車を迎撃し始めま
した。この士魂部隊の戦車隊とソ連軍の対戦車火器との銃砲激戦が
始まったのが午前8時30分。視界20mと言う濃霧の発生する中で約2
時間にわたる大乱戦が繰り拡げられました。四嶺山南東の日本軍の
高射砲の砲撃を受け、駆け付けてきた独歩第283大隊も残存戦車を
先頭に参戦するとソ連軍は百名以上の遺棄死体を残して竹田浜方面
に撤退しました。この時点で戦車第11連隊は27両の戦車を失い池田
連隊長以下、将校多数を含む96名の戦死者を数えました。この時の
士魂部隊の死闘ぶりはソ連軍を圧倒し、敵の対戦車砲で擱坐した戦車
から生き残った戦車兵が手傷を負いながらも壮絶な肉弾戦を行い、戦
車第十一連隊は池田連隊長以下、丹生指揮班長、副官の緒方大尉、
船水大尉、宮家大尉、藤井大尉、小宮中尉の各中隊長4名が戦死し
連隊の主だった将校がことごとく戦死する凄まじい戦闘を演じました。
擱坐炎上したる戦車は21両に達しましたが、残存戦車を第四中隊長の
伊藤大尉が指揮し戦闘を継続しました。その後日本側の独歩第283大
隊は国端崎に向け前進し、ソ連軍が既に占領していた防備の要所を奪
還しました。ソ連軍はこの地の再奪取を目指して攻撃を開始し、激しい
戦闘となりました。独歩第283大隊は大隊長が重傷を負い、副官以下
50名余が戦死しながらも、要地を確保して第73旅団主力の四嶺山南
側への集結を援護することに成功した。この戦闘の間、ロパトカ岬から
ソ連軍130mm砲4門が射撃を行ったのに対し、四嶺山の日本軍15cm
加農砲1門が果敢にも応戦して敵全門の制圧を報じています。

18日の午後には、国端崎の拠点を確保し、戦車部隊と歩兵第73旅団
主力が四嶺山の東南に、歩兵第74旅団の一部がその左翼及び後方
に展開し、日本軍がソ連軍を殲滅できる有利な態勢を作りました。
まさしく一気に殲滅が可能な体制です。昼ごろに第5方面軍司令官か
ら、戦闘停止・自衛戦闘移行の命令があったため、第91師団はそれに
従い、18日の16時をもって積極戦闘を停止することとした。しかし、
実際には戦闘は続き夜までには、幌筵島の第74旅団も主力の占守島
転進を終えました。ソ連軍は霧の晴れ間に航空機を飛ばして海上輸送
の攻撃を行いまが、それを阻止するには至りませんでした。

この士魂部隊を核と成した戦いでソ連軍は大きな痛手を被りました。実際の
被害は、日本軍の死傷者が600名程度、ソ連軍の死傷者は3000名以上と
推定されています。この戦いが帝國陸軍戦車隊の最期の戦闘になりました。

この士魂部隊と日本軍の戦いがソ連軍の最終目的であった北海道占領の
企図を放棄させた功績は第一級のものであり…北海道人である私にとっ
ても感謝の念と尊敬の念を持って占守島を守って戦った陸海将兵の全て
に頭を垂れずにいられません。


Японcкий список оборонявшихся на Шумшу частей.

~占守島で戦った陸海日本守備軍の戦力~

陸軍部隊

 第5方面軍第91師団隷下
   歩兵第73旅団(6個大隊)
        (旅団長:杉野 巌 少将)

  ・独立歩兵第282大隊:村上 則重 少佐
  ・独立歩兵第283大隊:竹下 三代二 少佐
  ・独立歩兵第284大隊:野口 谷五郎 少佐
  ・独立歩兵第285大隊:広江 重朗 大佐
  ・独立歩兵第286大隊:桜井 中佐
  ・独立歩兵第287大隊:得平 操 中佐
  ・歩兵第73旅団通信隊

 戦車第11連隊(中戦車39両、軽戦車25両)
  (連隊長:池田 末男 大佐)

 船舶工兵第57連隊残留隊 (特大発動艇20隻)

 海軍(伊藤 春樹 中佐、約1,500人)

  占守通信隊(司令:伊藤 春樹 中佐)
  第51警備隊
  第52警備隊

 航空部隊

  陸軍飛行第54戦隊残留隊
           (一式戦闘機”隼”4機)

  海軍北東航空隊北千島派遣隊
          (九七式艦上攻撃機4機)




Фотография полковника Икеда


Фото начальника штаба 11-го танкового полка(?), майора 丹生勝丈 (также погиб в атаке)


Еще одна упрощенная японская карта  боев на участке высадки


Японская иллюстрация - танки, бывшие на вооружении 11-го танкового полка.


Японская пафосная картинка.
« Последнее редактирование: 07 Октября 2010, 04:50 от Rino »

Оффлайн Pawel

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Относительно подробное японское описание боев на Шумшу. Естественно с японской точки зрения.
Оригинал на японском.

戦車第十一連隊は昭和15年3月に満洲で創設され昭和19年2月に第五
方面軍に転属となり北千島へ転進。主力は占守島に、一部が幌筵島、
松輪島、得撫島へ分駐しました。昭和20年8月15日の敗戦で連隊は同月
18日の午後に戦車を海岸に運び海中へ投棄する予定でしたが、その日
の午前零時にカムチャッカ半島のロパトカ岬灯台より占守島の国端岬と
...

Странно, но у меня вместо японского оригинала, под Win Xp наблюдаются одни квадраты.

Оффлайн Rino

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У вас не установлена поддержка иероглифов в винде. :)

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В Москву  Москву  Москву
Машина с заваренным пулеметом знакома... у нее внутри еще гусеницы свернутые были сложены.

Очень жаль это видеть.

Точно так,были гусянки сложены,даже масло в движке есть.

Оффлайн kokutai

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В Москву  Москву  Москву
Первая партия уже пошла

Оффлайн Pawel

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Интересно, а какие из этих машин остались на месте?
1 2 3 4
5 6 7
вторичный источник фотографий: http://the.shadock.free.fr/Surviving_Japanese_Medium_Tanks.pdf
Понятно, что №6 и №7(?) забрали, а остальные из этих?
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На том же сайте (http://the.shadock.free.fr/Surviving_Panzers.html) есть список: Japanese World War 2 tankettes and light tanks : Type 94 Te-Ke, Type 97 Te-Ke, Type 95 Ha-Go, Type 4 Ke-Nu, Type 2 Ka-Mi Amphibious, Type 95 Ri-Ki Crane Vehicle (http://the.shadock.free.fr/Surviving_Japanese_Light_Tanks.pdf), где мне понравилась эта фотография:

 Понпей (Pohnpei) Микронезия

Оффлайн Rino

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Первые два точно должны остаться, так как они "музейные", на высоте стоят. Четвертый и пятый, по моему, тоже остаться должны.

Вот еще "средние"...




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Понпей (Pohnpei) Микронезия
Помнится, на Милитарифото выкладывали снимки об этих танках. Как их бросили после капитуляции японцев, так и стоят до сих пор.